前回ちょっと書きましたように、ダウン症など知的障害ある人に使われている退行という言葉の意味は医学・医療用語とは違います。もちろん他の専門分野の方に、医療者がその意味についてどうこう言う権利はありませんが、少なくとも医学用語でないので医師が使うことはありえませんし、もし使ったとしたら大きな誤解を生じる恐れがあります。医師という専門職の業務の基本は正しい診断と適切な治療です。そのため医師は大学で診断学と治療学を基礎から学びます。漠然として曖昧な診断は適切な治療に結びつかないからです。もちろん診断のつかない病気もたくさんあります。でも、正しい筋道で診断していけば当たらずとも遠からず・・・人の悩みや患いの効果的な緩和・軽減にはつながるはずです。

医学用語としての退行という語は2種類あります。
(1) 認知症を含む神経変性疾患でみられる「能力などが後戻りする状態」
  これが一般的な退行で、原因は神経の変性によります。医師が退行と聞けば必ずこの語を思い浮かべますから、ダウン症の急激退行と聞けば「自動的に」認知症か!と思って当然でしょう。
(2) 精神科だけで使われる退行(フロイドの精神力動論からの用語「自我の適応的退行」)
  これはかなり特殊な用語です。自我の適応的退行というのは正常な心の働きであって、病気ではないそうです。たとえば一時的に願望や空想の中に入り込むことがあります。つまり、観劇や音楽を聴くのも、お酒を飲んで雑談するのも「退行」だそうです。そこでまた活力を得て、再び現実に戻る自我の能力をいう言葉です。この、再び現実に戻る弾力性を「自我の弾力性」といいます。つまり、この意味で言えば、誰にでも「退行」はあるのです。

ダウン症の人の思春期には、(1)の神経変性退行は偶然の合併以外はほとんどありえませんが、発達障害があるために、(2) のような自我の弾力性を失うと、独力では退行から戻れなくなることは当然考えられます。
ダウン症の人達が思春期を乗り越えるには普通より時間がかかります。でも、誰だって思春期を乗り越えるには援助が必要なのですから、ダウン症の人だけが独りでできるということはありえないでしょう。思春期につまずいたダウン症の人たちを何人も知っていますが、その引き金となった事や反応のしかたや経過は、引きこもりなど思春期の問題を持つ一般の子ども達とほとんど変わらないように思えます。自分で対処する方法が適切でないと問題は拡大しますが、対処法は、人それぞれの特性に応じた方法が選ばれるでしょう。ダウン症の人達は、物より人との共感性が優れていて、ファンタジーが非常に豊かですが、それが裏目に出て、人間関係の歪みがあると過剰のストレスになりやすく、自信や展望を失い、空想の世界に逃げ込みやすいのではないかと考えられます。
しかし、思春期に精神的危機が訪れたとしても、まずは医療の基礎をふまえた診断から入り、原因や本人の気持ちや考えを見出し、そこから改善に向けた方策を、本人を含めた関係者間で考え話し合っていくのが解決の道筋ではないでしょうか。 現在はそれがなされておらず、的確な診断と評価がないまま、ダウン症特有の急性退行だとレッテルを貼られ、さらに、アルツハイマー病につながる可能性などという決めつけすらされているのは納得できません。それによって親ごさん達は不安をかき立てられ、さらに、ダウン症=退行と短絡的に覚えた福祉関係職員なども非常に多いため、ダウン症だから退行があって当然と、うつ病や甲状腺機能低下などが治療されないで放置されているという話もまれではないのです。専門家の発言は社会的に大きな影響と責任が伴うのです。誰のための診断で何のための診断なのか再検討が必要です。さらに、ダウン症をもった人たちも私達と同じ人間として遇されていれば、このような状態にはなりにくく、特殊性を強調した表現もされないように思います。私たちにとって、ダウン症を持つ人たちへの共感はさほど難しくないのですから。
ダウン症の人たちは、いつも言うように過小評価されています。内面は大人でも子ども扱いされることが多いのですが、彼らは心優しいので、その人の期待通りに行動します。特に、いつも「いい子」と褒められ、頑張りと成果だけを評価されてきた人は、思春期になって自我が大きく育ってきても、それをもてあましてしまうでしょう。親に反抗したことがなく、親に悩みを相談したことがなければ、どうやって自我を出していいのかわからないのは当然です。いま親に反抗したら親は嘆く・・・心優しいダウン症の人は親を嘆かせたくないと、独りで苦悶し引きこもっていくでしょう。生真面目で良い子といわれてきた人ほど、この悪循環に陥りやすいでしょう・・・ほら、これって一般の人にも言えることではないですか。
この状態からの回復は人によって違いますが、家族がダウン症本人への一方的な期待をやめて意思尊重につとめた例、進学で自分の存在を失い生活能力や意欲が急に低下したことに親が気づき、ダウン症であることを伝え「できないことは多くても大事な人」と説明して急速に回復した例、高等部の時にやる気をなくし不登校になったものの、自宅に設立したデイサービスセンターで働くことで完全に戻った例など親ごさんから話を聞き、そのご本人と会うと、挫折を乗り越えて大人になったなあという感慨をいだきます。もしかするとこの状態は、思春期から大人になる時、退行が急激なのではなく、自分の成長や環境の変化が急激なのでついていかれなかったからなのではないかという気がします。ゆっくり進む人間として、大人になるための段階をふんだ適切な導きが必要な時なのではないでしょうか。
 なお、アルツハイマー病については、発症に関わる遺伝子が21番染色体のダウン症関連部位(DSCR)にもあること、中年以降のダウン症をもつ人の脳にアルツハイマー様の変化がよくみられ、症状も出す人が比較的多いことだけは知られていますが、「他の遺伝子は関係ないのか」「環境はどう影響するのか」「アルツハイマー病になる人とならない人の違いは何なのか」などわからないことだらけなのです。特に、年齢の高いダウン症の人達が一般の人と同じ生活環境にあるとはお世辞にもいえません。実は、調査・研究はほとんどなされていないのです。初めからダウン症は特殊と思う気持ちが、医学者たちに一部の研究ですべてを語れるという錯覚をもたらしていないでしょうか。人間の脳は超複雑系なのです。これは、脳トレをすれば頭が良くなるという、超複雑系の脳をもった人間を無視した錯覚と同じ線上にあるように思われます。データの一人歩きには注意しましょう。ダウン症の人は立派な人間なのです。

このような問題を予防に向けて、ダウン症の人達における生活環境の問題に対するチェックリストを作ってみました。これを実践することによって問題が大幅に減ることを願って・・・

 健全な、思春期 〜 青年期 〜 中高年期に向けて

・ 定期検診をしていますか?(甲状腺、尿酸、眼なども)
・ 肥満の予防やバランスのとれた食生活をしていますか?
・ 毎日適度の運動を楽しく続けていますか?
・ 水分摂取に気をつけていますか?
・ 毎日が充実した前向きな生活をしていますか?
・ 年齢相応の大人としての自覚を尊重していますか?
・ 自分で考え判断する力を信じて支援していますか?
・ 自分さがし役割さがしを支援していますか?
・ その人に合ったペースを知って接していますか?
・ 悩みの相談にのってくれる人が身近にいますか?
・ 家庭の一員としての役割をもっていますか?
・ 余暇を豊かに過ごしていますか?
・ 同世代との交流はありますか?
・ 性や結婚について、まじめに対応していますか?


ダウン症外来 その11