今日、ダウン症の人たちのレスリング練習を見学するという新しい経験をしました。それは早稲田大学の先生方が教育の一環として、半年前から大学の体育館でレスリング指導をされているということを、赤ちゃんの時から東京の病院で診ているユウスケ君のお母さまから伺い、練習光景を見たくなって押しかけたのです。ダウン症の人たちが対象ですから、もちろん頸椎に負担のかかることは避けてくださっています。私は、先生とレスリングの取っ組みあいをしているイメージをいだいていたのですが、全く違うのにまず驚きました。最初は皆で正座してあいさつ。低学年の子もいるのにお行儀がいいなあと感心し、次に何をするのかと興味津々見ていたら、何とレスリング試合の稽古ではなく基礎練習ばかりでした。でもそれがとても楽しく工夫されているのです。幼い子どもたちも楽しんでいましたし、うまくできなくても何度も挑戦していました。全身の筋肉強化やバランス保持のためや腹筋背筋の練習などのために、さまざまな楽しい工夫がされていて、無理なく身体をきたえられるので、こういうふうにしたら運動嫌いはなくなるだろうなと思いました。それに加え、レスリングの動きの基礎となるような面白い練習もなされていました。ちょっと休んだだけで二時間みっちり動きまわり、体力とスタミナのすごさにも驚きました。ダウン症の人たちの大きな可能性をかなり見聞きしている私でも、「彼らに合うやり方で関われば、こんなことでもできるのだ!」と感銘を受けました。先生方は教え込んだり叱咤激励していないのに幼い子でも難しい動作を覚えようとし、規律のポイントを外さずに行動しようとしていました。これはダンスのラブジャンクスの公演でも感じたことです。しかし考えてみらえば、教え込みや叱咤激励がないからこそ、心が自由で開放され、自分に合ったかたちですーっと自然に入っていける(腑に落ちる)のではないでしょうか。ダウン症の人たちの「見て覚える優れた観察力」を信じ、そこに「苦手なところへ少しの援助」をするのが一番、と常に思っていたことが証明されたようでうれしくなりました。なかには重い合併症があり歩いたのが四歳という小学生もいましたが、回を重ねるごとにたくましく成長し、先生も驚かれたそうです。指導陣のなかには、大学卒業ほやほやで養護学級の先生になられたフレッシュな女性レスラーもおられ、子どもたちは相手にしてもらいたそうでした。ユウスケ君は小学校四年生、ラブジャンクスのメンバーでブレイクダンスが専門、逆立ちやそのままの姿勢でフリーズ!が得意ですが、幼い頃はきゃしゃで握力も弱く、ハイハイもしなかったそうです。いまでは握力はもとより全身の力がつき、胸も厚くなってきました。レスリングの練習では、かなりのスピードで高這い移動をしていました。何と後ろにも高這いですいすい進むのです(前移動よりはピッチが上がりませんでしたが)。

ダウン症の子は一般に握力が弱いようなので、手先が器用でも思うように手が使いにくくなります。手先だけで物をつかむ子もいます。そのような特徴を知って関わってくださる指導者は静岡県内にもかなりおられるでしょう。先週お会いした静岡市のお母さまが、スイミングを始めようと思って水泳教室の先生と話したところ、「ダウン症のお子さんは腹筋背筋と握力が弱いので、それを強くするようなこともしていきましょう」と言われたそうです。日本中こういう理解ある指導者の方ばかりだったらいいのですが。目標を運動の上達だけに限っても、ダウン症の特性と、一人ひとりの個性をよく観て、ほかの人の経験などから学び、工夫して指導することで効果が上がるでしょう。効果の上がらないようなことを繰り返しされて、この子はできないダメだとレッテルを貼られるようなことはないでしょうか。

ダウン症の人たちとおつきあいしている人は誰でも、彼らが目で見たことを真似ること、つまり技術的なことを見て学び取ることは得意技なのに気がつきます。ダウン症の人たちのすることは、人や場に慣れさえすれば自然で、一般の人と何ら変わりはありません。ただ、前にも言いましたが、ものごとの意味を理解するのは容易ではないのです。しかし、容易でないということは無理とかできないということとは違います。それはつまり、おぼえるまでの時間が掛かるからあきらめてはならないということです。また、耳から聞いた言葉で理解するのにも時間が掛かるので、目からの説明も入れると効果的だということでもあります。そんなことをするのは大変だと思われるかもしれませんが、彼らを知ればそんな難しいことではありません。それにこれは、ダウン症に限らず、どの子にも必要なことでしょう。個別の説明が絶対必要な自閉症スペクトラムの子どもたちはダウン症よりはるかに多く、最近は10人にひとりはいると言われています。

ダウン症の人たちに、まず必要なことは、今していることや今後やることについて、その人の年令と発達を考えたうえで、わかりやすいような説明をすることでしょう。ダウン症の人たちは、意味がわかれば応用もきくようになります。そこは自閉症スペクトラムの人たちとの違いかもしれません。もちろんどちらが上か下かということではありません。そのような評価は全くナンセンスです。

たとえば、その場で何をするかが(見てわかっているくせに)、やらないで寝そべっていたりすることがありますが、そのとき、叱ったり、何も言わずに引っ張ったり抱いたりして連れ戻すことはありませんか。幼い子に適切な行動を教えるにはいいのですが、適切な行動が何かわかっている時期にこのようなことをしてもちゃんと動くようにはならないでしょう。もちろん年令が進んで状況判断ができるようになる子は多いでしょうが、それは多分、大人の有無を言わせぬ行動が彼らを変えたのではなく、自然な発達によるものでしょう。もし彼らに合った対応をすれば、もっと早く、大変な思いをすることなく適切な行動に行き着いたのではないかと思われます。楽しい(面白い)か嫌(つまらない)かで行動を変えたり、その時の気分によってやったりやらなかったりというのは幼さのあらわれですので、社会性の発達をうながすような言葉かけや説明が必要となるでしょう。

ダウン症をめぐって数々の迷信がありますが、まどわされないためには、「一人ひとり違うのは、ダウン症の症状からの差違以上に、親が違うための相違なのだ」ということや「ダウン症が性格を決めているのではなく、性格は主として親からの遺伝と環境からつくられている」「ダウン症の子は器用、ただ時間がかかる。また、握力の弱さが支障となる」「ダウン症の人が永遠の子どもというのは間違い。それは年令相応に遇されていないから成長できないのだ」といった事実を知っているといいでしょう。ダウン症の子はそと見からわかりやすいこともあって、一般の人と違うと思われがちですが、違いを強調することによって、違いは増大し悪循環にすらなりえます。そうすると、ただの違いも個性を越えて続発的な障害となってしまいます。ダウン症のそと見としての体型や表情などのうち、障害を防ぐことはできるのだと、たくましくレスリングの練習をする子どもたちや青年たちを見ながら改めて感じました。ダウン症の人へのレスリング指導は世界で初めての試みだそうで、これから日本各地に広めていきたいそうです。



ダウン症外来 その6