連休も過ぎ、就園・就学で大変だった方々も一息ついておられることでしょう。でも保育園・幼稚園や学校に入られてもあまり理解されないという悩みをもたれている方もいらっしゃるようです。最近、あるお母さまから、学校の先生「こういう子たちは…」「ガンコなところがあるから…」「言っても分からないと思うけど」と言われてがっかりしたと伺いました。そういう話は以前から毎年聞きます。今でもまだそうなのかなと私もがっかりしましたが、考えてみると、これはきっと、ダウン症はとても特殊、という大きな誤解があることが原因かもしれません。

まず、「こういう子たちは…」という言葉には、普通と全く違う子だからという視点が感じられます。皆様はすでに、ダウン症児という特別な子がいるわけでなく、普通の子がダウン症の特性をもっているだけ、それも人によって違うのだ、ということを知っておられます。でも残念ながら、多くの先生方はそういうことをご存じないようです。医学関係の本やホームページには病気や障害だけが説明されているので、誤解が生じてもしかたがないかもしれませんが、私たちの声が届いていないことためもありましょう。ですからここでもう一度、大きな声で叫びましょう。「わが子は、こういう子たちと一律に呼ばれる子ではありません!ダウン症児はこんなに特殊というレッテルも貼らないで!ダウン症をもっているだけで、基本は普通の子と同じ、一人の個性ある人間です。普通と言われている子どもたちだって一人ひとり違うでしょう。ダウン症があっても一人ひとり違う個性をもっているんです」。 ただしその「個性や特性」も、まわりの人たちの適切な支援が欠如していると生活に支障をきたし「障害」になってしまいますから、気をつけないと知らず知らずに障害を作る「環境を整備」していることになります。それは根拠なくレッテルを貼られ、もっている力がほとんど発揮できない環境です。子どもは人や環境との相互関係のなかで成長しますから、その関係しだいでは成長が停滞しても不思議はありません。

次に、よく言われる「ダウン症児はガンコ」という言葉はどうでしょう。ガンコというのは、本来、障害とは無関係に、「がんこ一徹」「こだわりの店」のように、その人の個性に対する尊敬の目が感じられる言葉です。でもダウン症でガンコと言われるとだいたいが、扱いにくい、困るという言葉が続く、悪い響きがあります。でも彼らはどうしてガンコな態度をとるのでしょう。理由なくガンコになるはずはありません。ご当人の考えを知るのは容易ではありませんから、まず自分自身がガンコになったのはどういう時か(自分は絶対ガンコではないという方は友達などの様子で)考えてみましょう。おそらくそれは、まわりの人たちが気持ちを理解してくれず無理やりさせられるのに抵抗した時、頭ではわかっていても言われた通りに体が動かなかった時、自立に向けた心の叫びがあるのに言葉で出せなかった時などではないでしょうか。これらはいずれも、非常に人間らしい成長への渇望から、自分の力を認めてほしいと思うのに、うまく表現できないいらだちの態度ではないでしょうか。つまり彼らの言いたいことは「ちょっと待ってて!自分のやり方で、時間をかけて、納得しながらやらないとうまくいかないから」ということでしょう。ダウン症の人たちは、プライドも高く、まわりの人の評価を敏感に感じ取ります。ですから、失敗したり途中経過を見せるのはいやなようです。完成したものだけを見せる、たとえばリハーサルはしないでじっと観察し、家だとやることもあり、本番にはきちんとやる、ということはありませんか。

ただしダウン症があるために新しいことを理解し習得するのに時間がかかるということはあります。発達が緩徐で筋緊張低下があるため、自分に合ったやり方でないと混乱してうまくできないこともあります。家や療育施設で、身辺自立をいくら教えても覚えない、この子には無理だと思われていることもありますが、それはおそらく、ご当人に合わないやり方がされているとか、自分でやりたくなる対応がされていないとか、スピードが早すぎ段階をふんで教えられていないとか、もう出来ていることなのにやるとほめられているとか、やらなくてもいずれやってくれると読まれているとか、時と場合によって違うでしょうが必ず理由はあります。 特にダウン症の子は手先が器用なのに握力が弱いことが多く、それがさまざまな作業に支障となります。ですから、作業療法で手先の練習をするより握力がつく練習のほうが効果的でしょう。手先のはたらきは、家の仕事を一緒にやったり、ボールや大人の体で遊ぶことで知らず知らずに向上します。これは一般の子と何ら変わりません。ダウン症の子がきょうだいより器用と言われるご家庭もありますが、そのお宅では危険でないことは何でも許されています。抑制されなければ子どもたちは好奇心が強く、何でも試してみて成長するものですが、ダウン症の子も全く同じです。危険なことは、避ける方法をその都度教えていけばいいのです。きちんと教えなければ、後から危ないと気づかずやることもあります。障害がある子だから危険がわからないということはありません。経験から覚えていかないと、危険も加減もわかるようにはなりません。

最後に、ダウン症の子は本当に言ってもわからないのでしょうか?言ってもどうせわからないだろうと、何も言わずに態度や行動だけで「指導」されているのはよく見かける光景ですが、その時に「ちゃんとわかっていますよ。だからあのような反応が返ってくるんです」と説明すると、「え!わからないと思ってた」と言われます。でもその判断の根拠をお訊ねすると、だいたいは、知的障害があるからわからないはずだ、という思いこみのようです。でも思いこみはレッテル貼りにつながり、レッテル貼りは偏見につながっていきます。私たち人間は完全なものではありませんから、きちんと知らないまま偏見をもってしまうところがあります。でも社会の偏見を解いて親も子も生きやすい世の中にしていくためには、まず自らの偏見から考えていくことが必要ですね。

ダウン症の子の共通の特性は確かにあります。特に、「観察力が優れていて」「自分に都合の悪いことかどうか瞬時に判断し」「嫌なことを避けるためにいろいろ工夫し」「相手が自分をどれだけ理解しているか判断し」「できない・わかっていないと思う人には期待通りに行動し」「いけないことをしてみて、それを確かめる」のです。まるで生まれつきの心理学者、実験科学者ですね。こう言うと過大評価だと思われるかもしれませんが、子どもと気持ちが通じる学校の先生方は同じように思っておられますし、多くの親ごさんも言っておられますし、あるダウン症の成人は私のことを「最大の理解者です」と言ってくれていますから、私の独断論ではないと思います。それを客観的に証明するのは難しいことですが、お互いの共感や相互理解は誰にとっても重要ではないでしょうか。それによって関係が良くなれば、それにこしたことはないので、難しい議論をする必要はないと思います。

 最近、ダウン症の子がいかに普通か改めて考えさせられる話に出合いました。それは「指さし」についてです。指さしは子どもたちの発達に重要なものですが、指さしには二つのはたらきがあるそうです。その一つは「あれがほしい、とって」という命令的指さし、もう一つは、人の注意(視線)をある物に引きつけることを目的とする宣言的指さしで、これは「あんなものがあるよ」というコメントや註釈の代わりになるものだそうです。命令的指さしは相手の心の状態は関係なくてもいいのですが、宣言的指さしは人の心の状態を考えることによってはじめて成り立つものだそうです(子安増生著「心の理論」岩波書店より)。ダウン症の子は両方の指さしができます。それで思い出したのは、静岡県立こども病院の療育外来を見に来られた東京のドクターに、配達されたえんぜるさんのパンを買ってプレゼントしたところ、その方が机の上にパンを置いていたのを見つけて、一人の2−3歳の男の子が近寄ってきて指をさして、「パン、パン」と言うのです。その先生は「パンほしいの?」と言われました。でもその子は「ううん、パン、パン」と言って指さしを続けていました。そこで私はあっと気がつきました。この子はパンが欲しいんじゃなくて、「これはパンだよ」「パンがあるねえ」というようなことを言って共感を求めているのだと。そこで「そうだねこれパンだよね」と言うと、安心したように離れて行きました。心理学の研究でも言われているそうですが、ダウン症の子は二種類の指さしを使い分けてすることができるのです。でも、親ごさんや先生方は、言葉が言えないから指さしをしても欲しいものをわかってあげられないと思ってはおられないでしょうか。このような「共感を求める心」をせっかく持っていても、反応が返ってこなければ「もうういいや、どうせわかってくれないんだから」と諦めの気持ちに変わってしまうでしょう。そして、自分勝手な行動や、言うことを聞かなかったり、逆に言うとおりにしかしない指示待ちの態度など、指示・命令か抵抗だけの狭い世界に入り込んでしまうことにもなりかねません。ダウン症の子にいろいろ教え込んで発達を伸ばそうとするよりも、まずは、せっかく持っている豊かな共感性を妨げないようにすること、つまり、一緒に語り合い、共感しあうことが最も大事なのだということを、心理学研究と経験から改めて感じました。指さしは言葉が出る前の準備f段階でもありますから、言葉の(遅れ気味でも)正常な発達過程がたどれるためにも非常に重要なことでしょう。ダウン症の子に言葉だけを教え込むのはよくないというのは、障害のためでなく、このように正常な面を阻害するおそれがあるからなのです。



ダウン症外来 その7