静岡
ダウン症児の将来を考える会


長谷川知子先生のご講演
1999年3月9日(火)浜松市保健所・母子保健センターに於いて


 最近、「五体不満足」という本が出ていますが、あの本の中に書いてあることは、何ら珍しくなく、障害をもっている子どもさんや親ごさんは、共通の考え方、感じ方を持っておられるだろうと思います。特に大事なことは、ご本人の考え方や生き方を親ごさんがつぶさなかったところでしょう。

 ダウン症のお子さんの中にも、大学に入ったということで有名になった人がいます。
実際、私もあの本を読んだし、ご本人にも会いました。あのお嬢さんが特別に頭のいい人であるということは確かですが、その能力を親ごさんがつぶさなかったということが大きかったと思います。つぶさなかっただけではなく、能力が花開くような環境を作ってあげられた。これが一番大事なことであると思います。それでは、その環境が何であるかというと、全く特別ではない環境なのです。

 健常な子どもにいい環境はダウン症の方にもいい環境だ、ということになるでしょう。
そして、それはどこから始まるかというと、本当は生まれてすぐに始まっていると思います。

 彼女は鹿児島の女子大に入って、卒業してから試験に受かって図書館司書になったという情報をこの間もらいましたが、そのお嬢さんの親ごさんの育て方を見ていると、毎日毎日の積み重ねが大切で、大人になって、成人になって突然何かできるわけではない、ということを感じます。それは、別に障害を持っていようが、健常であろうが全く同じことなのです。何が大切かというと、その子に合う、その子の人生にどういうふうに関わってあげられるかということで、それは一人一人違います。

 例えばIQが高いとか低いとか、わりと気にされていますが、その値は問題ではなく、IQが高くても世の中に入られない人もいれば、低くても世の中に普通に入られる人もいる。IQに関わる能力というのは、社会の中でも、あるところは使えるけれど、あるところでは全然使えなかったりするので、その人その人で違ってくるのは当然なのです。

 ですから、その人がどういう風に人生を送ったら一番いいのかということは分からないけれど、毎日毎日、好奇心や関心を広く持ってそれらを深めていきながら、いいこと悪いことのけじめもつけていくこと、それがとても大事だということは感じます。

 実際、私たちは「障害」と他人事のように言いますが、私たちだって自分の中に障害というものを必ず持っています。自分ができないことはみんな障害になり得ます。私なんか「障害をあげろと言われれば10個くらいはあげられる」と言ったら、「もっとあるんじゃない?」と言われたことがありますが、それも場面によって違うわけです。外国に行けば 誰でも言語障害になったりします。それが原因でコミュニケーション障害にぶつかって自殺した人もいます。反対に、言葉がうまく通じなくても、外国の人と何となく分かり合って、それでうまくいっているという人もいます。ですから、ダウン症の障害というものも これと変わらないのではないかと思うのです。

 健常な子どもたちでもうまくいかないことが、障害を持っている子どもたちには、もっとうまくいかないと思っているとしたら、それは頭が堅いだけのことで、そんな「普通の大人」よりは子どもたちの方がずっと頭がいいと思います。

 大人の頭は堅いですから、親ごさんたちから「この子はどうしても発達が遅い」という訴えがあったとき、私は「親ごさんたちの方がずっと発達が遅いのよ」といじわるを言います。でも、「私なんかもっと歳いってるから、もっと発達してないけど」と言ったりします。

 子どもたちの方が自分より発達が早いのだから、それに自分がついていけないのにも関わらず、発達が遅いと決めつけている。大人は、そういう、根拠が全くない中で決めつけて、枠を作って子どもを入れてしまう。大人は子どもの発達についていっていないのです。それは、親と子が同じ歳だと言うこともあります。つまり、子どもが生まれた時に母親はその子のお母さんとして一緒に生まれてくるわけです。だから自分の子どもについてはじめから分かっているか、というと誰でもそんなことはないわけです。

 ただ、親というのは大人ですから、それまでの経験をもとに先を見ることができますので、それを活かしていくことも必要です。例えば、けじめをつけるとか、これはやった方がいい、悪いとか判断力が必要な場面で、子どもが納得できるように教えていく必要があります。ですから、親になるということは、子どもの世界と大人の世界を行き来することだとか何かに書いてありましたが、多分その通りだろうと思います。

 やはり、お母さんこそ我が子の一番の専門家であるべきなのです。専門家というのは勉強しなければいけない。それこそ、子どもについていろいろな面から、頭だけでなくて全身で勉強しなければいけないのです。

 しかし、何でもできるのが専門家ではなくて、自分のここまではできるけれどもこれはできない、何ができて何ができないか自分の限界を知るのが専門家です。何でもできると思うのは素人なのです。ですから、それを知り、ある事がらについて誰と相談していったらよいかということをお互いにわかっていく、ということが必要だと思います。    

 どんな障害を持っていようとも基本は健常児なのです。健常児が病気を持っている、健常児が障害を持っているのです。普通の子どもが何か違うものを持っているというだけのことなのです。

 私の教えている助産学科の試験に、自分の考え方を書いてもらうことがあるのですが、それを見ると「障害のある子どもが生まれたら自分には育てる自信がない」という人が結構多いようです。多分、ほとんどの(障害のある子どもを持たない)人が、育てる自信がないと考えていると思います。だけど、それは「全く現実的ではない」ということを知っていなければなりません。育てられない親ごさんは、まずいないと思います。もし育てられないようになったとしたら、原因は最初の説明の時にあるのではないでしょうか。

 例えば、最初にとんでもない説明を受けていて、それが頭に刷り込まれて自信がなくなっているとか、病気の話ばかりされてしまって、それがどうしても頭に染みついていてその子が見えなくなってしまうというようなことがあります。

 実はあるところで非常に脅された方がいて、それで恐くて、その方のお子さんはとてもかわいい子なのにそのかわいさがわからなくなってしまった。その方の意識の中で子どもの顔に恐ろしいお面が貼り付いてしまい、顔を見ただけで震え上がってしまうと言うのです。信じられないけれど、頭の中にそういうものが作られてしまう場合があります。

 このように、受け入れられない気持ちのかなりの例が、医療関係者によって作られたもののようです。また、それ以外にも受け入れられない親ごさんがないわけではないのですが、それは多分ご自身の今までの人生の中でそういう異質なものにぶつかったことがないとか、偏見があったり、それに対して恐かった経験などが、全く関係のない部分でつながってきてしまう。そういうことがあるのではないかと思います。

 ですから、基本的には普通の経験をした普通の人ならば、受け止められないわけがないのです。育てられないことはないと思います。ですから、育てられない人に対して何をするかを医療者は考えるべきで、育てられない人がいるからこの子どもはいない方がいい、などという考え方はとんでもないし、すごく短絡的だと思います。そのような考え方をする人は確かにいます。そういう考え方に対して私たちは闘っていかなければなりません。
障害を持っている人はいるのが当たり前だし、私たちもいつ障害者になるか分かりませんし、「世の中は障害者と障害者になる可能性のある人しかいない」ということまで言われるわけですから。

 障害者と健常者は、はっきり分かれて世の中にいるわけではなく、本当はその区別などはないのです。障害者かどうかというのは、むしろ一人では何らかの能力的な不完全があって、一人では自分の生活とか社会生活などができるかできないかということですから、その限界はだれにでもあります。

 前に言いましたように外国に行けば言語障害になるし、私たちもある部分ではもうほとんど障害者と思うことがありますから、その線引きをどこでするかということが重要なわけです。それではその線引きは何かというと、実は行政的なものであって、例えばどのくらい社会での支援がいるかどうかというところの線引きなのです。ですから、その社会の支援とか援助がいるかいらないかというところが障害者かどうかの基準になります。
「あの人は障害者よ」というそのようなレッテル貼りに使うものではないと思うのです。
障害者であるということで、逆にその権利を主張するために使う言葉であって、これは
「だからだめなんだ」という否定的な言葉ではなく、「障害者であるから何か援助を必要とするんだ。」ということを言うための言葉なのです。

 ここにダウン症のお子さんがいるとして、その子の個性について、障害が個性だと言われることがありますが、私は障害だけを個性と言うのにはどうしても抵抗を感じるのです。個性というのは、その人全部の中の個性だと思います。ですから、その個性は障害を持っているということと他との相まっての個性だと思うんです。障害だけが個性ではないと思います。
個性というのはどこからきているかというと、ご両親からの遺伝子というのがかなり大きい訳ですね。障害が100%であれば生きていけないですし、ご両親の遺伝子はものすごく働いている。だからお子さんを見るとよく親ごさんに似ていますね。実に似ていると思うのです。そのご両親の遺伝子と、それからご両親からの環境ですね。それと地域の中でどういうふうに関わってきたかということが個性をつくっていると思います。

 それから、普通の子の発達段階というものも個性をつくっている要因と思うのです。
普通の子であるということが基本にあって、それに加えてダウン症ということが(他の病気もここに名前を変えて入れればいいのですが)個性に関係してくるわけです。ですからいろいろなものが相まって複雑にからんで個性になっているわけですので、一部だけみていくのではなくて、そのお子さんの全体をみてあげるということが必要だと思います。

 そういうことを毎日やっていけば大人になっても何ら困らないとも言われます。やはり
小さいうちからやっていくことがとても大事で、そういう経験を活かしていけば、これからの方たちというのは、今までの状況とは全然違ってくるだろうと思うのです。

 浜松は、学校のことにしてもずいぶん対応が柔軟になってきたのではないかと思います。
私は県の人権擁護委員というものになっているのですが、浜松市は人権のモデル市だということを聞き、これは良いことだと思いました。

 でも、そういう偏見とか差別によって人権を阻害するようなことがないように、絶えず
監視していないと、行政というのはすぐに安易に流れますから、民間での監視はとても必要だと思います。

                                            以上



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