静岡
ダウン症児の将来を考える会


提言「青年期のこころと行動の変化について」
河内園子
これは、平成10年4月の成人の会での提言に加筆したものです。
河内さんの京都での講演も合わせてお読みいただくと、より内容が深まります。
京都での講演は
こちらトライアングルHPです。

 近年、ダウン症の青年におきている問題について、”退行”とか ”おちこみ”とい
うことばで表現されている行動の変化が話題になることが増えてきました。
今までの行動表現と比較してみると、動作が緩慢になったり、今までできていた日常生活がスムーズにゆかなかったり、ことばを失ったように無口になったり、囁くような小さな声で話したり、ことばの数が減少したりの状態をみせます。
しかし、この彼らの状況を説明する表現として ”退行” ”落ち込み”という言葉が使われることにはあえて異論を唱えたいと思います。これは彼らの立場に立っての表現ではなく、家族、特に親やまわりの人たちが彼らの状態を評価している言葉だと思うからです。
 それは、親(まわりの人たちも含めて代表として”親”とします)にとって、今までの
彼らの行動とは違って理解しにくく、日常生活に支障を来す原因になる行動を指さしていわれているのではないでしょうか。
 このような彼らの行動の変化に出会って、親が戸惑うことはあたりまえのことです。何かと以前の、親たちにとって理解しやすい行動に戻そうと、あちこち”治療”のために奔走します。当の本人はいつの間にか病気にしたてられ、検査や治療のあれこれをためされてしまいます。しかし、”ちょっと待って下さい。”と私は言いたいのです。彼らにとっては当たり前の行動、そうせざるを得ない行動なのかもしれません。
私たちが彼らのことで戸惑う時、いつもその”源”は彼らの側にあると考えてしまうのではないでしょうか。
思い出してみてください。このような親たちの思考回路と行動は、私たちがはじめてわが子に”ダウン症”という診断されたときの、そしてそれからの数年間の行動に似ていませんか。

彼らには彼らなりの通りたい道、やりたいこと、行動したいやりかたがあるのではないでしょうか。
 今まで彼らが歩いてきた道は、親をはじめ学校や周りの人たちが、愛情を持って、彼らに示してきた道でした。彼らも楽しく、ある時は頑張ってやってきたのです。
そして今、彼らが直面しているのは、これまでの道筋がまちがっていたというので
はなく、彼らが”今までのあり方では違うなあ” ”ちょっと待って”と自分のことを考えなおす必要な時間なのではないかと思います。
 人生を旅行の行程に置き換えてみてください。目的地につくまでには、山あり谷
あり、河ありと地形の変化があり、手段としては特急電車や急行、鈍行列車の旅があるでしょう。
彼らがこどものころ、私は彼らの子育てについての捉え方に、鈍行列車の旅、各駅停車ののんびりとした旅の良さを、よく例えとしてきかされました。こうしてみると、私たちは乗り物での旅しか考えられなくなっている時代なのだと気付かされます。しかし、彼らの旅にはもう一つ、徒歩での旅も選択肢の中にあったかもしれません。
もし、今の彼らの行動をすべてがストップしたり、後退したり、あるいはトンネルの中にいるような状態と感じられるのであれば、それがなぜなのかを考えてみてはどうでしょうか。
彼らは次の町へ行くのに、列車の旅ではなく、便利なトンネルを利用するのでも
なく、この山を、峠を越えて、歩いて行きたかったのかもしれません。
もしトンネルの中に入ってから”これではいやだ”と気づいて足がすくんでいるのなら、じっと見守っているだけでなく、少し手がかりをあたえて、手をひいてゆっくりトンネルの出口まで導いてあげればよいのではないでしょうか。
人生を”旅”だと考え、現在の状態をその1ショットとしてとらえると、トンネルに入る前の景色と、出てからの景色は当然違うはずです。彼らの行動を以前の彼らの姿に戻そうとすることは意味がないのではないでしょうか。トンネルを抜けたとき、そこには以前の彼らとは違う姿があるはずです。きっと彼らにとって必要な時間なのです。
 彼らのひとつひとつの行動を”親”の基準に合わせて「今日はよかった」「きのうより今日は元気がない」と観察しているのではなく「今日はお話が楽しかったね」「今日は静かに過ごしたね」とひとつづつ肯定してゆくこと、彼らの行動の一つ一つに意味のあることを考えてあげたいと思います。

これを機会に私たちのこどもへの接し方について考える良い機会だと捉えてみませんか。
彼らの行動について考えるとき、親や周りの人が、今までの生活からおしはかって、彼らのことはすべて理解していると錯覚して、彼らの言いたいであろうことを先取りしてしまうことはありませんか。
私の出会ったこんな場面からも教えられることがありました。
 Aさんは私に、次の日の予定について伝えたいと思っていました。いつもお話をしているお母さんには、多分彼女の話し方すべて通じたのではないかと思うのですが、私にはなかなか聞き取れず、こんな会話になりました。
Aさん”あしたね、お〜〜〜ね” 私”ええ、おもちゃ図書館ね、よろしくお願いします”Aさんはいつもボランティアをしてくださるので、私は勝手にそう返事をかえしてしまいました。するとAさんは ”そうじゃなくて、あした、〜〜〜〜だから” わたしには〜〜〜〜の部分がききとれません。何回か繰り返して ”ピアノがあるから”がわかりました。早とちりな私はまたもや ”お休みなのね”と、・・・Aさん、”そうじゃなくて、ピアノがあるから、おひるから行きます” と何回かの問い直しの後、私が”あしたのおもちゃ図書館にはピアノのおけいこがあるから午後から来てくださるのね”とわかったときの彼女の満面の笑みと大きくうなずいた姿にとても感激しました。何回もの問い直しにも
かかわらず、いやな顔も見せず、そして自分の伝えたいことが正しく伝わるまで、根気よく対応してくださったことと、その間、側にいらしたお母さんが、しずかに見守ってくださったことにとても感激しました。
 こんな場合もあります。ここしばらくことばの数がへっていたBさんが久しぶりに、私の耳元で囁くように話しかけてくれました。 ”〜〜〜〜〜”何回かこの繰り返しがあって ”ディズニーの”が聞き取れて次のことばを探っていた時、そばでじっと二人の会話に耳をすませていたおかあさんが、”実はね・・・”と彼女がなにを話したいかを察して、その日のできごとを説明してくれました。彼女は黙ってそのまま脇でわたしとお母さんの話を聞くはめになりました。これは私たちのよくやるパターンではないでしょうか。
 Aさんは自分の思いを自分の力で、自分の納得のいくまで根気よく解決の努力をすることを身につけたのだと思います。Bさんの場合は、言葉の足りない部分については、誰かが補ってくれる経験が多かったといえるのではないかと思います。
言葉の面をたとえに使いましたが、これはよくあることです。先日もこんな場面にでくわしました。こどもが自分で靴を脱ごうとしていると、お母さんが現れて靴を脱がそうと手を伸ばしたのです。するとこどもはせっかく自分で脱ごうとしていたのに、さっとやめてしまったのです。気がついたお母さんが手を引っこめたのですが、もう子どもは自分で脱ぐことはやめて、お母さんに脱がせてとグズグズいって結局お母さんが脱がせるはめになりました。おかあさんは、「無意識に手が出ているのよね」と反省しきりでした。そんな積み重ねはいつかこどもの自信をも失わせてはいないでしょうか。 
同じような考え方で育てていても、微妙に違う親の行動パターンのくせは子育ての上では顕著にあらわれます。特に成長に時間のかかるこどもたちにとっては、その影響は大です。
ちょっと生活の不都合が生じたとき、まず相手の言動をとやかく言ってしまいがち
ですが、なぜ相手がそのような言動にならざるを得なかったかを考えられる思考回路を磨いてゆきたいものです。
 自分とこどもとの間で起こった不都合なことは、”ちょっと立ち止まって考えて
ごらん”という信号ととらえるように心がけてみましょう。それまでにやってきた
ことも、それはそれでよかれと思ってしてきたことなのですから、失敗と考えるの
ではなく、これからの生き方を考えるきっかけととらえてみてはどうでしょうか。
人生に後戻りはないのです。
私は常に前進あるのみと思っています。

 私はここ1年ほど体調を崩していました。
いつも元気がとりえだと思っていた自分が、体調を崩してみると、彼らの気持ちがわかるような気がします。音楽ひとつ聴くのにも、元気なときにうけいれられた楽しいと感じたリズムを苦痛に感じたり、ピアノの演奏より弦楽の方が受け入れられたり、この指揮者の演奏よりこちらの指揮者の方が心地よく聞こえたりするのです。また、光の全てがまぶしくて、ほとんど目を閉じていたかったり、健康なときには何時間も平気で見ていたテレビをブラウン管の光が目に入るのもつらく感じたり、本当に健康なときには考えられないくらい要求が細分化されるのです。人の心は不思議なものです。



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